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歴史

  • [公開日:2023年11月28日]
  • [更新日:2023年11月28日]
  • ID:106

下市町のあゆみ

下市に初めて人が住み着いたのは、いったいいつの頃からでしょう。百合ケ峯・峯山五丁森・瀬の上遺跡(いずれも下市町阿知賀)からサヌカイトの石屑や須恵器が、野々熊・新住でも遺跡が発見され、また、吉野川流域には、縄文・弥生式文化の遺跡が上流の宮滝まで広範囲に散在しています。この事から、大和民族が、縄文・弥生時代に魚猟生活を営み、やがて農耕生活によってこの地に定住していったと考えられています。
やがて京都や奈良を中心とする天皇や貴族の金峯山信仰が盛んになるとともに、下市は仏教文化の影響を受け、歴史的にも特異な存在となっていったのです。

平安時代になると、貴族や有力社寺が荘園経営のため大挙して下市に進出し、活況を呈することになりました。「下市」というのは「上市」に対する呼称で、秋野川が当時、吉野地方の入り口であったため、中世以降、交易が盛んになり、毎月2・7日は、「市」が開かれた事によります。
「山家なれども下市は都、大坂商人の津でござる」とうたわれ、江戸時代初期には日本最初の商業手形「下市札」が発行されました。以後商工業都市として、あるいは願行寺の寺内町として目覚しい発展を遂げ、吉野地方の中心的な存在として政治・経済・文化の上でも重要な役割を果たしてきました。

慶長8年(1603年)に江戸幕府が開かれると、この地方は、他の地方に見られるような一国大名を置くことなく、小単位の大名領と天領を合綴し、天領も直領と知行所に分け、それぞれに分治させるという方策がとられました。こうして吉野郡はこの直轄となって発展したのです。
慶応3年(1867年)大政奉還後維新政府が出現すると、翌4年には奈良県が誕生、その後明治3年には五条県が設置されました。明治21年に町村制が公布され、翌22年に下市村以下11ケ村が統合され、下市村が誕生しました。そして明治23年4月1日、下市村は下市町として発足し、昭和31年には秋野村、丹生村と合併して現在に至っています。

昭和49年には、全国に先駆けてCATV(下市テレビ)の開設、住民憩いの場としての森林公園やすらぎ村や保養センター下市温泉秋津荘、体力増進に中央公園などを設置し、町民の健康保持への環境を整備しています。平成2年には町政施行100周年を迎え、南和地域の文化の拠点として下市観光文化センターを建設。住民の健康づくりの拠点の場として下市町保健センターを建設、また平成12年には老朽化していた上水道施設の全面改修を行ない現在に至っている。

下市町の歴史

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